<1> 常楽寺城(別名 木村城)への訪問      平成22年5月

 平成22年5月,例の倶楽部の面々と能登〜敦賀〜琵琶湖周辺〜恵那峡〜白樺湖 というコースで5泊6日のツーリングに行った。今回は,そのうちの一箇所だけを掲載したい。
 今を遡ること500年,戦国時代である。この地域に先祖が棲息していたようだ。なにがあったのか,おそらくは争いによってこの地を逃れることになり,どういう経路を辿ったのかは記録がないが,常陸の國まで流れ着いたとのこと(バイクでも相当の距離)。常陸太田の近く(旧金砂郷村)であった。当時は佐竹氏の支配するところで,その配下に収まったと思われる。戦国の世も終わり,佐竹氏は秋田に移封されたが,我が先祖は仲間とともに常陸の國に残ったようである。このへんまでは分かっていたが,さて近江の何処が拠点であったのは判明しない。調べてみると,安土の近くに2箇所の城跡が紹介されていた。そのうちの一箇所を今回,初めて訪問したものである。


                 ※以下の説明は借用である。

【現地の状況】

 常楽寺城は観音寺城の西約2kmに位置し、湖岸近くに築城され常楽寺港を押さえる城である。
 常濱水辺公園に隣接する畑地一帯とされ、発掘によって堀を検出したとされるが、現在では遺構らしきものは残されておらず、唯一、畑地が微高地であるのが面影を止めている。
 なお、常濱水辺公園一帯には、常楽寺港の舟入が住宅地の中に残っている。


【城郭の歴史】

 常楽寺城は琵琶湖の海上ルートを押さえる目的で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。

 永正4年(1507)管領細川氏の家督争いに端を発した将軍職の争いで、前将軍足利義材によって将軍職を追われた足利義澄を水茎岡山城に保護した伊庭氏の家臣・九里備前守、および伊庭貞隆と六角高頼の戦い(第二次伊庭の乱)で、木村城は伊庭方に攻められ落城した。
 六角氏と家臣・伊庭氏との戦いは永正11年(1514)から6年の長きにわたって続き、永正17年(1520)水茎岡山城の落城を契機に六角氏が勝利を得るが、元亀元年(1570)落窪の戦いを最後に六角氏が滅びると常楽寺城も廃城となった。

 常楽寺城は廃城となるが、南近江を掌握した織田信長は、天正4年(1576)安土城を築城するまでの間にたびたび常楽寺に宿泊している。
 また、元亀2年(1571)には常楽寺港から一向一揆が立て籠もる金ヶ森城を攻め、また元亀3年(1571)には常楽寺から志賀郡の木戸城,田中城攻めに出陣している。



※以下は,今回の写真。現況は住宅地になっているが,西の湖へ続く水路が残り,石垣に風情がある。
(クリックで画像拡大 ↓)

【周辺図】




<2> 北村城(別名 木村城)への訪問  平成23年11月5日
 
 10月末に西日本への単独ツアーとなった。行きは高速だけを使うため滋賀県内のSAでハイウェイホテルに泊まり,翌日に知人宅の島根県益田市に到着した。ここで2泊も世話になってしまった。簡単にルートを紹介すれば,当日は津和野近辺に翌日は角島から萩(松下村塾),そして秋吉台へ。翌々日は三瓶山まで見送って頂きその後はソロで出雲大社へ。この日は蒜山高原に泊まり,翌日は京都(光悦寺など)に泊。次に近江の木村城を訪問した。
 ここで当主の木村氏に話を伺うことができた。元々は前回22年訪問の安土の地に居住していたが信長が進出してきたために安土より南の現在の野洲市に移ったとのことである。要するにあの織田信長には逆らえなかったということであろう。家来衆とともに移ったそうだが,他の者はその時に別な土地へちりぢりになってしまったので,あるいは一部が常陸の國に落ち延びたかもしれないとの話であった。
        
  屋敷を一巡する掘の跡。                                             広々とした墓地。それぞれに墓碑銘が。

以下のURLで紹介しているので参考に。

    野洲市北村の木村城